巣鴨駅は昔から「おばあちゃんの原宿」と言われているほど高齢者が多く集まる街です。巣鴨駅の近くの地蔵通りは有名ですが、そこを通ると見事に高齢者が非常に多いという事が感じられます。そのため高齢者対策として駅のエスカレーターや大型スーパーのエスカレーターの速度が遅かったり、バリアフリー化を行ったり、山手線改札内に多目的トイレを設置するなどの対策がとられています。その反面、中学校や高等学校などの学校施設も多く建ち並び、ホームには山手線を利用する学生が多く、また駅前には学生が楽しめるファーストフード店や居酒屋が並んでいるのも特徴です。万人が楽しめる街が巣鴨なのです。
苦というとげを抜こうともがいて、もがいて、苦に塗れていく苦の人生を、「それが抜けますように、抜けますように」とさらにもがいてもがいてもがき苦しむ。その死ぬまで続く下世話で卑猥で尊き性と生を、この散文詩は生きている。描いているのではない。
言葉の動き、言葉の跳躍、言葉の横柄、言葉の苦吟、言葉の飛躍、言葉の沈潜、言葉の饗宴・・・。評者がこの20年来で読んだものにおいて、これほど深く撃たれ、心騒がせ、血を滴らしたものは、ほかにないかもしれない。
伊藤比呂美は何年も前から知っていたが、今回これに遭遇して、多分評者の人間性は何かが変わってのではないかと密かに期待してるところだ。
言葉の醜さ、いじらしさ、歓び、軽はずみ、美しさ、酷薄さもみんなみんな、まるごとこのなかにはあって、言葉の卑小、と偉大によって叩きのめされた。
今年のナンバー1決定です。
すごいです。
今まで、両親の介護と看取りのことを考えると怖くて、怖くて、仕方がなかったのですが、この本を読み終えるとともにすこし怖さが消えました。いえ、消えたのではないんですが、何か別のものに変わりました、恐怖が。ずっとずっと後で、それが何に変わったのだったか思い返す日が来ることでしょう。そのときには私も自分自身の死について考えるようになっているのでしょう。
浄化を伴う言葉の力がここに「生きて」います。それが「生きて」いるというのは本当に、心底、すごいことです。この詩人の作品を読んできてよかったと心から思いました。
なんというか、こういう文学もあるのかという思い。今まで読んだことのないものです。
麻薬のような呪文だらけの本。この人でしか味わえない快感とグロさ。たとえて言えば、この本を読むのは「巣鴨のとげ抜き地蔵を、お参りしてお札を買う」ようなこと。
>>「たまごっちがあれば」「わたしは使える、時間を楽しく、病院で待っているときも、空港でも、飛行機の中でも」「すべての日本の少女たちはみな例外なく持っている、たまごっちを」<<
こんな具合に、娘や夫の英語の直訳が、ずらずら出てくる。その硬くてこなれない日本語が、面白み。娘らは、どこかしら病んでいる。元凶は、日本人と西洋人の狭間に生きることの困難さか。つきつめれば「私は孤独だ」ということ。
末っ子に、日本語を完全にマスターさせようと、行ったり来たりして悪戦苦闘している姿は、もはや悲痛。言語をツールとして見るのではなく、言霊の宿るモノとして「頼みの綱」にしている感がある。やはり詩人ならではの感性。
呆けてきたお母さんとの会話も、面白悲しく、リフレインに満ちた、それらは「詩」のようでも(祝)詞」のようでもある。どんぶらこっこと、楽しめる派と、悪酔いする派が居るに違いない。
最近の彼女のテーマは「生・性・死」。ねずみは素手で捕まえられるのに、死骸だけは触れない、という著者は激しく「死」を恐れ、それゆえ解剖するみたいに、血糊やゲロや排泄物にまみれて「死」を探している。そして「生」も「性」もしかり。
1.なんだって人は!こんなにも苦しみながら生きているのか!?
2.滑稽にも性を営み!子をなし、繁殖し!それを育て!
3.病を得て!老いて!そして苦悩しどおしで!死んでゆかねばならないのか!?
そういうことが、連綿と書き連ねてある。育児エッセイシリーズがそうだったように、読む人は、知らず知らずに、それらの苦悩から救われる。私も、どうにかして、これらの疑問を解明したい。と、この人を読み続ける。
ラストが、突然に感動的で、泣けた。
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